The New Wave Jazz Orchestraの軌跡
昭和40年代前半阪大にビッグバンドができた。当時は大学中を探しても楽器ができる人が少なく、オーケストラと掛持ちの人もいた(当時のTp、OB会名簿の一番最初に載っている)。バンド名は「Swing Academy Orchestra(以下SA)」。社会人の初任給が1万いくらの時代に楽器は今と同じウン十万したので当時のSWINGのメンバーはお金持ちの方が多かったのではないか、と思われる。ただし「医者かバンドマンか?」と言われる時代でもあり、バンドマンの給料は最高に良かった(月20万位?)。そこで、ちょっと楽器の吹ける学生はキャバレーでバイトしまくった。稼いだお金で楽器を増やしたりしてクラブもだんだん充実したそうな。今2軍バンドで使っているバリトンサックスは当時も70万くらいしたとは思うが、メンバーが寄付していったもので、昭和60年頃までずっとNewWaveで使っていたものである。
昭和40年代はベイシー、エリントンハーマンも健在、リッチ、サドメル、クラーク ボーランなどビッグバンド百花繚乱の時代で、学生バンドの活動も盛んだった。同志社 関学は憧れの的、ハイソ(早稲田大学)、ライト(慶應大学)は夢のまた夢。昭和40年(1965年)に阪大SAはやっと頭数と楽器が揃い格好だけ付いたという状態だった。当時の音源が高島教授(1965年入学TS)のHP(http://tkrobo3f.k.hosei.ac.jp/Sajo1967)で聞ける(現在リンク切れ)。
その後のSAは次第に力を付け昭和45年、46年となぜか連続して関西ナンバーワンとなった。低レベルと言われればそれまでだが、当時の関西の老舗バンドは唖然としたことだろう。
〜各年の特色〜
●昭和54年('79年)
「Swing Academy Orchestra」から「The New Wave Jazz Orchestra」に名称変更。ハッピもこの年にできた。当時のコンマスはDsの武田。
●昭和55年('80年)
山野初出場。コンマスはTpの城崎。 山野では審査員賞を授賞。「Mean What You Say」で現在プロの中嶋さんがBass Solo をとり、他には「Blues Around The Corner」,「Impressions」(この頃は、まさにNEW WAVEに名前を改めたところで、まさにオリバーネルソンやデュークピアソンなんかのモーダルな曲やかっこいいbig band界のNEW WAVEといえる曲をたくさん取り上げていました。
●昭和56年('81年)
山野2回目。賞はとれず。コンマスは大隅(g)。曲の路線は前年と同様。'80年に関西の学生バンドのためのコンテスト「宝塚JazzContest」が、古谷充等が審査員でスタートしたが、'84年の第5回を最後に終わってしまった。主に関西のバンドが出演したが、阪大は最後まで1回も授賞できなかった。20大学出場し、授賞は5校程度。優勝は同志社が2~3回、富山大が2回位だったと思う。
●昭和57年('82年)
コンマスは四方(p)。この年は山野の出場をあきらめ宝塚に専念。曲は「Orange Sherbet」、「Groove Marchant」。この年の定演ではベイシーを半分くらいと16ビートのウディハーマンものと2色の色合いのバンドだった。
●昭和58年('83年)
コンマスは幡山(p)。とうとうこの年はほとんどベイシーナンバーになったが、まだ今のように50年代のライブレコーディングはあまりなく(in London,Sweden,Miami)、楽譜もなかったため、主にネスティコものを中心にやっていた。 山野に再び出場。メンバーに4年生が多く、学生最後の思い出作りに東京に行きたいと思い出場。当時2年の森知彦(ds)が宝塚で個人賞を授賞。山野では「The Heats On」「Hay Burner」「Satin Doll」「T.F.J'83(宝塚の課題曲)」。勢いでいきなり4位のスウィングジャーナル賞。国立音大がグランプリをとったが、当時は早大ハイソ、慶応ライトはプロみたいに別格にうまかったのでまけて当然。それよりも同志社に勝ったことがメチャメチャうれしかったのを覚えている。愛知学院に勝てたことは当時としてはセンセーショナルなできごとだったと言えよう。
●昭和59年('84年)
コンマスは本多一光(tp)。山野ではTBSラジオ賞と、上田美恵(Vo)さんが優秀ソリスト賞を受賞されました。曲は「Wind Machine」、「Blues for Stephanie」、「Give Methe Simple Life」でした。ヴォーカルの3曲目が終わってから司会者が止めるまで拍手が鳴り止まなかったそうです。
●昭和60年('85年)
この年のコンマスは現アトミックジャズオーケストラの西村重徳(Tb)、山野では「Mean What You Say」,「Little Pixie 2」(審査員賞)をやりました。コンテスト以降定期演奏会まで、徹底してサドメルのみをやった年でした。
●昭和61年('86年)
コンマスは切手崇博(as,ss)。「Ya Gotta Try(B.RICH)」,「Quintessence(Q JONES)」,「Burnin'(DON MENZA)」。バンドでは賞はとれず、コンマスの切手崇博(as,ss)さんが優秀ソリスト賞受賞しました。この年はTOSHIKOとかROBMaCCONELなどいろいろとやってみた年でした。
●昭和62年('87年)
コンマスは広兼剛(Tb)。「This Could Be TheStart Of Something Big」,「Moten Swing」,「IfI Could Be With You(harry james)」,「FlightOf The Foo Bird」(スイングジャーナル賞)を受賞。この年以降50年~60年代ベイシーを中心としたレパートリーに絞るという延々10年以上に渡って続くコンセプトがスタートしました。この頃ベイシーの50年代のライブ版が海賊版などで次々に出てきて、そのすごさを改めて確認した頃でした。コンマスの広兼剛(現プロTb)と、夜な夜な下宿へ寄りこの演奏はええで、とか言ってベイシー路線に走らせたのは何を隠そう私(’84本多)です。ちなみにこの年私は6月から12月までニューヨークへ遊びに行ってまして、後輩から送られてきた山野のテープのFlightを、ちょうどマンハッタンでライブをやっていたジョー・ニューマンに聞かせた思い出があります。このテープは、東京のどっかの学生バンドにも出回ったようですね。(HP[ベイシーの小部屋]の書き込みにありましたね)
●昭和63年(‘88年)
コンマスは和久治彦(Ts)。「How High TheMoon」,「Counter Block」,「Summer Frost」,「Fancy Meeting You」(審査員賞)。この年も徹底した50年代ベイシーナンバー路線でしたが、コンマスの和久氏はもうちょっと古い40年代とかもやりたかったようでちょっとそんな色もありーの年でした。アトミックのリードラッパ岩田君がこの年1年でレギュラーデビュー、How Highのハイノートを吹いた後失神したこともあったようです。
●平成元年('89年)
コンマスは丸山和則(Tb)。「Sixteen Men Swingin'」,「Blues In 'hoss Flat」,「Almost Like Being In Love」,「Basie」(初めての優秀賞2位・このときは同じ路線の明治BSもBasieをやって初の最優秀賞に)。この辺で将来もしかしたら、優秀賞も夢じゃないかもと思ったのですが、実際にとるのはだいぶ後になってからでしたね。でもこの路線で間違いがなかったんだと確信した年じゃなかったんですかねえ。3年間同路線にしてきてそれが実を結んだような形で取った賞でした。個人的には初めてスイングジャーナル賞を取った年と同じくらい嬉しいできごとでした。
●平成2年('90年)
コンマスは若杉幹人(tb)。山野特別賞。「Stereophonic」,「Corner Pocket」,「Roll'em Pete」,「Blee Blop Blues」(特別賞+リズムセクションに審査員賞)。この年は、最初で最後?の男性ボーカリストも登場し大受けでした。山野で阪大といえば、演奏前の期待の声援と演奏後の拍手(演奏もさることながらパフォーマンスに対する拍手も含めて)が一番大きなバンドというのが定着してきたころでした。最近では下品な声援が飛ぶバンドが多々ありますが、この頃は阪大くらいじゃなかったでしょうか?
●平成3年('91年)
コンマスはヒロミツ(g)。山野奨励賞。「You Got It」、「Why Not」、「So Young, So Beautiful」、「Hittin' 12」。
●平成4年('92年)
コンマスは長井稔(as)。山野審査員賞。「Half Moon Street」、「And That's That」、「Whirly Bird」。
●平成5年('93年)
コンマスは里村稔(ts)。山野優秀賞と優秀ソリスト賞受賞。「Fancy Meeting You」、「T.V. Time」、「All Heart」、「Little Pony」この年はめずらしくベイシーナンバーだけでなく、サドメルにを手を出す。
以上、本多(’84コンマス・tp)さんから寄せていただいた記事です。ありがとうございました。
●平成6年(’94年)
コンマスは 平石勝俊(tb)。山野では「A Square at The Roundtable」「Fair & Warmer」「Make Me APresent of You」「Discommotion(Basie)」で3位優秀賞を受賞。バンドは優秀賞、日比野則彦(ts)が最優秀ソリスト賞受賞。3月の京都・磔磔での4大学ジョイントライブを皮切りに、東京・明治大学でのX'mas Jazz Liveまで、年間通じて20数回のライブを精力的に行う。バンドへの情熱の深さからメンバー間での衝突も幾度となく起こるが、回覧日誌『愛憎の営み』や定期・不定期の飲み会等でお互いの意見をぶつけ合い、切磋琢磨し、最終的には「最高のバンドができた」(平石談)。軽妙MCの中嶋労(tp)、カレーマン荒木俊一(tp)、大飯食らいの有瀧正人(b)など、メンバーの個性が非常に強いバンドでもあった。なおこの年、日本E軍Monkey Club Jazz Orchestra(H5結成)が山野BBCに初出場し、スウィングジャーナル社賞を受賞するという快挙を成し遂げている。(’94・ds石橋記)
●平成7年(’95年)
コンマス兼元大(as)。「Avenue C」「How Am I to Know」「Lady Carolyn」「Rat(Fat) Race」で念願の最優秀賞を受賞。2年連続出場となる日本E軍Monkey Club Jazz Orchestraは奨励賞。またこの年の4月、当時のカウント・ベイシー・オーケストラのリーダーであり、往年のベイシー楽団の名ソリスト・アレンジャーでもあったフランク・フォスター(ts)が阪大明道館を訪れ、BOXにてNew Waveとの夢の共演が実現した。MCの紅林(as)が得意の英語を活かした成果である。なお彼の行動力はこれにとどまらず、後にロイヤルホースでのNew Waveライブに、当時来日していたゲイリー・バートン(vib)を招待することにも成功した。(’94・ds石橋記)
(賞)
優秀賞
優秀賞
特別賞
TBSラジオ賞
スイングジャーナル賞
TBSラジオ賞
敢闘賞
特別賞
優秀賞
特別賞
スイングジャーナル賞
特別賞
日刊スポーツ賞
InterFM賞
日刊スポーツ賞
さいたま市長賞
特別賞
Jwave賞
審査員賞
第4位入賞
奨励賞
コンサート形式
コンサート形式